寒河江八幡宮流鏑馬保存会 本文へジャンプ
歴史



目 次

1.寒河江八幡宮の勧請と八幡原八幡宮

2.寒河江八幡宮の流鏑馬

3.流鏑馬の解説





1.寒河江八幡宮の勧請と八幡原八幡宮                   大江親広 鶴が岡八幡宮の勧請  六供町八幡宮 八幡原の出土源義家の伝説 
                        

広元の長男親広は、父広元と共に鎌倉幕府の要路にあってまだ寒河江には下向
しておりませんが、寒河江荘を譲り受けた建久二年(1191)に鎌倉の鶴が
岡八幡宮の分霊を勧請して寒河江長岡の地に八幡宮を建てます。これが現在の
六供町です。しかしこれよりずっと前に、寛治七年(1093)、源義家の建
てた八幡宮があり、この社地を八幡宮といいました。縁起ではこの時建てる事
情を説明して、広元の指揮によりとか、広元の許可によりなどと書いておりま
す。そしてこの時八幡原の八幡宮も寒河江八幡宮に合祀したとなっております。室町末期に書かれた寒河江城の古地図には八幡原八幡宮が描かれておりますの
で、長い間併存していたものでありましょう。

昭和三十八年、高瀬自動車学校を建てるためにブルで地均し工事をしました時
、この附近の台地から二枚の古鏡が出土しました。一枚は鎌倉時代と思われる
もの、もう一枚は室町時代のものでした。恐らく八幡宮の摂社があったところ
と思われます。また八幡宮のあった場所は今も八幡屋敷といっておりますがこ
こからも須恵器の壺が出土したといわれます。

源義家の勧請といえばこの時代は京都の石清水(男山)八幡宮からの分霊を祀っ
たことになります。この近くに石清水という場所があり、清水が出ております。丁度中部小学校の前の通りを南に行って台地の坂にかかるところが石清水です。源義家の伝説は兎も角としてここに八幡宮があったことは事実といわなければ
なりません。

一方六供町八幡宮は景勝の地で鎌倉の鶴が岡八幡宮とは似た地形であり、大江
氏がここに勧請したのも小鎌倉のような考えがあったからだろうと思われます。そして当時鎌倉武士の間で盛んに行われた流鏑馬を取り入れ、馬場を造り、こ
こで武技を練ったのでありましょう。寒河江の古地図には何れも馬場道として
記されております。                           
 



                                  

2.寒河江八幡宮の流鏑馬
 

今年も八幡の森に幟がはためいて、祭りの日がやってきた。門前には出店が出 て、いっそう祭りの雰囲気が盛り上がる。小さかったころ、手に小遣いを握り
しめて何度、この山を上り下りしただろうか。

神輿の通る我家の前には、長岡山から採ってきた赤土を少しずつ置いて、小山
の行列をつくる。

九月の十四日の晩は、夜通し太鼓が鳴り響く。夜中に起きても、さびしそうに
「ドーンドンドンドンドンドン」をくり返している。流鏑馬太鼓というのは、
大きくなってから分かったのであった。

九月十五日は祭礼の日。神輿が神社にもどって、夕方から寒河江の馬走りと称
する「作試し流鏑馬」が始まる。近郷近在から集まった観衆は、走るたびに大 歓声を上げる。それがまるで鯨波のように響き渡る。先触れの金棒引きのカラ カラカラという音。卿参(きょうさ)乗りと称する顔を真白に化粧した稚児、
陣笠に狩装束の騎手の丸い背中、馬の荒い鼻息とその匂いを今もはっきり思い
出す。

今年は宮司の鬼海さんから例大祭のお使いをいただいて、じっくりと流鏑馬を
拝見することができた。

実は、寒河江八幡宮の流鏑馬が県内で珍しい競技を伴う祭りとして、その調査
対象となり、九月十五日に大友義助先生と県の茂木さんの調査の同行を仰せつ
かっていたのである。

九月十二日、宮司の息子さんと流鏑馬保存会の富樫二郎さんから流鏑馬関係の
資料を六点ほどいただいた。この有名な流鏑馬も、毎年やっていることだから
ということで、学術的にまとまった研究はなかったのであろう。

1、寒河江八幡宮案内

2、流鏑馬行事(鬼海平氏書留)

3、作試し(さくだめし)流鏑馬

4、流鏑馬保存会

5、寒河江八幡宮流鏑馬の保存会

6、平成九年度「寒河江八幡宮流鏑馬について」

                    山形寒河江工業高等学校社会部

 

これらの基本となっているのは、2の宮司のお父さんが書き留めていたメモで
ある。これは貴重である.

 

寒河江八幡宮は、八一○年前の建久二年に大江親広のよって鎌倉から勧請され
たという。寒河江大江氏は寒河江城の西に八幡宮を置き、流鏑馬を導入した。
父広元が頼朝の第一等の家臣であったから、鎌倉とそっくりの町づくりをした
らしい。だから寒河江は「小鎌倉」と称されている。

流鏑馬が行われていたという証拠は、寒河江城古図の八幡宮の所に「馬場」と
あることと、八幡宮拝殿に宝暦十二年(一七六二)八月十五日の流鏑馬絵馬が
残っていることからも分かる。

江戸時代の中ごろまで、本格的に、走る馬上から的を射る流鏑馬行なわれてい
たのであった。この日は放生会(ほうじょうえ)といって、舟橋川に生きた鳥
や魚放す儀式行なわれていたことも分かる。この放生会に流鏑馬を行なう形式
は、鎌倉八幡宮の儀式そのものだったのである。

長い間のうちに、三頭の馬を走らせ、それぞれに早稲(わせ)中稲(なかて)
晩稲(おくて)と決めて、走りのようすや、的にあたった数で豊凶を決めていた
らしい。

武士の武芸の鍛錬と遊戯でもあった流鏑馬が、東北の小さな町に根付き続いた
のは、大江氏四百年の歴史と天領としての誇りが町の人々にあったからかも知
れない。寒河江陣屋の代官が、この由緒ある寒河江八幡宮の祭りをとても大切
にしたのであった。

時は過ぎて、鬼海平さんが宮司になった昭和初期のころ次のように行事は進め
られていた。

 
九月一日 馬揃 村山一円の駿馬数十頭のなから、数頭の馬を世話係 (細谷
・宮林両家)選び出す 九月九日 奉仕騎士・郷参乗り厳選、駿馬毛揃 騎士
三名と馬三頭と近郷の上層階級の男子一名を選び、斉館に一週間の斎戒沐浴に
入る。この間、毎朝水垢離(みずごり)、拝礼を行い、弓矢を作る。九月十二
日 鞍(くら)祭り 騎士だけ鞍に神酒を供えて安全を祈る。九月十四日 前日
祭 騎士・郷参乗りは正装して馬場にて神事。一の馬。二の馬。三の馬の騎士
が駆けて的を弓にて射る。夜、一晩中太鼓を打ち鳴らす。

九月十五日 神輿渡御・例大祭・作試し流鏑馬 一の馬、二の馬、三の馬をそ
の順序に走らせて、豊凶を占う。弓矢は形式だけで、実際は競馬(くらべうま
)。一のうまが勝つと来年は早稲、二の馬が勝つと中稲、三の馬が勝つと晩稲
が豊作になるというように占った。

九月十六日 流鏑馬終了奉告祭 斎戒を解き直会となる。こうした一連の行事
には、馬場の柵結い、馬の世話、行事の指導など、それぞれが役割分担をして
神事を支えていたのであった。

九月十二日、ちょうどこの日に馬が三頭入って、馬場ならしと鞍祭りが行なわ
れた。舟形町から二頭、村山市から一頭、いずれも輓馬(ばんば)であった。

時代は変わり、一週間もお篭りができなくなっていた。しかし節目の行事はし
っかり行なわれていた。斎館の仮の馬小屋には懐かしい馬の匂いがただよって
いた。この日から何回か馬場で足ならしをしたのである。

九月十二日 いよいよ本番。神事のあと、本殿の前で騎士たちが力餅を食べた。そして馬場で「古式流鏑馬」を行なった。保存会の騎士たちが走る馬上から、
次々に三つの的に鏑矢(かぶらや)を打つ。命中するたびにバシッと大きな音
をたてる。そのたびに歓声が上がる。

解説者の石山忠さんが一人一人を紹介する。「森岡幹夫騎手三十三歳、弓道暦
十五年、現在五段、乗馬暦八年、園芸試験場勤務、趣味は草取り」・・・。

観衆はどっと笑う。この人は三つの的を見事に当てて、褒美に白布一反をもら
った。この日、どの人も皆的(かいてき)であった。島屋の阿部社長や高橋愛
朗さんも出場していた。流鏑馬保存会を作って十五年。モンゴルや上山まで練
習に行って伝統行事に精力を傾けているという。この人たちが流鏑馬を支えて
いた。

つぎに「作試し流鏑馬」である。少年が金棒を引いてきて、その後三頭の馬が
走る。一の馬、二の馬、三の馬と順序よく出発させても、今年は二の馬だけが三
回とも勝った。これを神の意志とむかしの人が考えたのだろう。これは競馬で
弓で矢を射ることしかない。明治ごろからこの方式になったと伝えているが、
弓術と馬術の両方をマスターするのが困難で、続かなかったのであろう。今年
の名誉ある騎士は、富樫二郎・芳賀孝・高橋愛朗の三氏であった。

八幡山に今年もよく人が集まった。馬走りと聞くとじっくりしておれない人も
いるだろう。寒河江地方は平安時代から知られた馬産地で、昭和初期からは、
「寒河江競馬」が開かれた。こうしたことも流鏑馬の根っこにはあるのだろう。

大友先生も茂木さんも、水一つ飲まないで三時間にわたる流鏑馬神事を記録し
続けた。流鏑馬の終わるところ、日は傾いて秋を思わせた。

「馬走りが終わると稲刈りだね」というむかしの挨拶を懐かしく思い出して、
お二人を送ったのであった。



3.流鏑馬の解説
 
「寒河江八幡宮流鏑馬」は、800年の歴史を持ち、「農作試(さくだめし)
流鏑馬」、通称「寒河江の馬走り」として、絶えることなく現在に至るまで行
なわれているものです。鎌倉時代の流れを及んだ長い歴史を持つ由緒ある伝統
行事であり、全国的に誇ることのできる流鏑馬であります。

鎌倉時代の初め、文治5年(1189年)11月、大江広元公が、功によって
源頼朝より出羽国寒河江荘が与えられました。それから2年後の建久2年(1
191年)2月、嫡男(ちゃくなん)親広公が、父広元公の許可を得て、荘園
内民心のより所として氏神の必要を感じ、鎌倉八幡宮の神霊を勧請(かんじょ
う)し荘内総鎮守として八幡宮を長岡の里に建立したのが「寒河江八幡宮」の
起こりです。

寒河江大江氏在職時代の古地図によると、八幡宮境内に馬場と書かれた所があ
りますが、現在、流鏑馬を盛んに行なっているところがその場所であります。
当時の鎌倉武士は、弓馬の道を好み、流鏑馬を盛んに行なって士気の高揚に励
んだと言われており、寒河江八幡宮においても、これを神事として行なうよう
になったと伝えられております。それに、米沢市の成島八幡においても、かつ
て流鏑馬の神事が行なわれておりました。成島八幡は、長井荘をもらった長井
時広とその子孫が代々拝した八幡であり、時広は親広の弟にあたる方です。こ
の寒河江と長井の両荘で流鏑馬が行なわれていたということは、何か軌を一に
するものがあります。寒河江荘は、平安時代には摂関家の所領で、そこの産物
に馬があったことが藤原忠実の日記殿暦に述べられ、寒河江馬は、公卿の競(
くらべ)馬にその名をとめております。

 

 

流鏑馬は、もともと公卿によって行なわれたものでしたが、鎌倉時代には武士
の間で尚武(しょうぶ)と遊戯を目的として行なわれるようになり、室町時代
に入ると全国的に衰微の一途をたどったと言われております。それが復活する
のは、江戸時代8代将軍吉宗のときであり、元文3年(1738年)2月9日、高田八幡の馬場での古武による流鏑馬が行なわれたことによってでありました。

ここ寒河江八幡宮の流鏑馬の記録としては、宝暦12年(1762年)8月1
5日、楯西瀧田門の西堀小三郎という方が奉納した、黒漆塗り、緑づきの華麗
な大和絵の絵馬が、現在も八幡宮殿内にあります。これを見ますと、一の馬、
二の馬、三の馬の順に描かれており、一の馬は騎射を終え、的中して弓を捨て
て日の丸の扇を広げ開いて走り去る光景、二の馬は、射手が馬上にて弓をいっ
ぱいに引き絞り「二」と書いてある的に向かって、正に矢を放たんとする場面、三の馬は出発しようとしている光景で、「三」と書いた的を的持ち係らしき人
が手に持って準備しております。射手の衣装は、陣笠をかぶり、陣羽織を着て
立附様の袴をはいて軽装、背には箙(えびら)を背負っており、現代のものと
全く変わっておりません。絵は古武流の流鏑馬でありますが、三頭の馬はそれ
ぞれ早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)を占うで、馬の走り古具
合や的を射た矢数により、次の年の豊凶の作柄を占うといった「農作試(さく
だめし)流鏑馬」として農民の大きな
期待と信仰をあつめるようになってきま
した。

流鏑馬は、正月にその年の吉凶を占う占いの神事でもありました。その後、祭
礼の行事となり、8月15日に行われていました。現在は、例大祭が9月15
日になっておりますので、前日の14日に「古式流鏑馬」を、15日には「古
式流鏑馬」と「農作試(さくだめし)流的場」の二通りを行うことになってお
ります。さて、明治・大
正・昭和の初め頃までは、9月1日に「馬揃い」と称
し、当郡内は勿論のこと、東村山郡、
南村山群などより、流鏑馬奉仕志願の馬、数十頭が境内に集合し、吾れ先へと奉仕を競ったといわれております。この地
方として、飼い主たちが、晴れの奉仕を最大の栄誉としたためでありました。
ですから、駿馬の集うこと、この地方随一であったといわれております。当日、世話係が駆け競べを行い、その中から数頭の馬が選ばれました。9月
9日に
は、さらにその中から3頭を厳選するとともに、流鏑馬奉仕の騎手も選ばれま
した。

射手奉仕は古来より、男子の栄誉とされ、西村山郡・東・南村山群などより多
くの希望者が集まりました。そして京参乗り(きょうさぬり)と呼ばれている
近郷上層階級の男の児、
流鏑馬騎手、世話係は同日の昼、長岡山の麓を流れる
祓川(はらいがわ)で水垢離(みずごり)し、心身を清め、白衣装に着替え、
社前に奉仕、新誓奉告祭を行います。当日より、騎手、京参乗りは勿論のこと、祭礼関係の上級者は穢れ(けがれ)を忌み嫌い、清浄
を旨とし、御籠堂に起居
し、7日間斎戒沐浴のうえ、9月14日から晴れの奉仕を行っておりました。
この7日間は、毎日未明に起床し、祓川で水垢離し、社前にて朝拝を行い、

鏑馬行事に必要な弓・矢・的を作りました。矢は古来、参拝者に配り、当たり
矢として縁起のよいもの、又はお守りとして持ち帰る風習があります。14日
には前夜祭を
行い、その後、古式流鏑馬が行われます。そして、その夜には境内に於いて夜を徹して太鼓を打ち鳴らす行事があります。これを、「馬走りの太
鼓」と呼んでおります。
明け
て9月15日には、早朝から神輿が町巡り行列に奉仕参加して、例大祭終
了時、流鏑馬折願祭を行い、騎手(のりて)は力餅を戴いて、流鏑馬装束にて
馬場に入ります。
15日には二通りの流鏑馬が行われています。まず最初に、
「古式流鏑馬」で、これは昭和63年より復活したものです。

「一の馬」、「二の馬」、「三の馬」の射手により、馬上より的を射る奉納騎
射が行われます。

次に「農作試(さくだめし)流鏑馬」が行われます。「農作試流鏑馬」は競い
馬で、本来は都合3回走りますが、その都度「金棒(かなぼう)引き」と呼ば
れる男子の子供2人が流鏑馬の開始予告と露払いの役となり、金棒を引いて走
ります。馬は一番速いのを「一の馬」、次に速いのを「二の馬」、一番遅いのを
「三の馬」と予め決めておき、「一の馬」より順次、間隔をおかず走らせます。そのときは、矢を射るのではなく、あたり矢を観客に投げて走ります。このや
り方は明治の末頃から行われるようになったと言われております。「一の馬」
は一番速く駆ける力を持っており、そのうえ一番速くスタートさせるのですか
ら、一の馬、
二の馬、三の馬と順当にゴールするのが普通なのですが、そこが
占い神事というのでしょう、神の力か境内を埋める観衆の声援か、馬の順位が
違ってきます。馬の順位が平常の場合には、来年の稲作柄は順当で、特別に、
「一の馬」早い時には早稲(わせ)が良く、「二の馬」が早い時には中稲(な
かて)が良い。「三の馬」が早い時には晩稲(おくて)が良いとされ、県内各
地より見に来て、来年の稲作柄を占っております。五穀豊饒・天下太平を農民
と一体になり神降ろし(かみおろし)したのが、全国に一つしかない「寒河江
の農作試(さくだめし)流鏑馬」であります。

16日には、奉告祭を行い、斎戒を解いて、直会(なおらい)に入ります。
上、鎌倉時代から近年までの「寒河江八幡宮流鏑馬」について、ご説明致しま
したが、昭和63年、寒河江の始祖・大江公の入部800年という記念すべき
年にあたり、これを機に「寒河江八幡宮流鏑馬保存会」が発足いたしました。
これは、以前にはどこの農家にも飼われていた馬が、現在では殆どいなくなっ
てしまい、祭りにも差し支えるようになってしまったこと、更に、それに伴っ
て乗手が少なくなってしまったことなどを憂い、この歴史ある伝統行事を守り
続けたいという事と、何とか、この寒河江八幡宮に、馬上から矢を射る「古武
流鏑馬」を復活させたいと願う同志の心意気でもあります。皆様方のご見解と
ご支援によりまして、ここに、鎌倉武士を彷彿させる「古武流鏑馬」が見事に
復活されたわけであります。

 

《この草稿は昭和63年の9月14・15日の「流鏑馬」神事の際に

「寒河江八幡宮流鏑馬の解説」として作成、解説したものです。》